「妊婦さんの制服」

病院に通い出して、1年半くらいだけど、初めて、妊婦服の制服を見た。今まで、妊婦さんかなと思える看護師さんや女医さんもいたけど、制服がやはりちょっとぱっつんだったり?

でも今日の外来の看護師さんは明らかに、妊婦服仕様でふわっと楽そうだった。

なぜ、いままでそういう制服が無かったんだろうと思える。女性がたくさん働く場所なのに。

画期的だよね。同じ柄でふんわり妊婦服。

ただ単に太っている人、体格のいい人は2Lサイズだったり、3Lだったり??

長谷川義史 「おへそのあな」より

「ぼくのジィちゃん」

今日は地元の中学校の運動会だ。お天気にめぐまれて何より。

ウチのじいちゃんは、元気がよかったころ、運動会は大好きで、陸上部だった二男を応援することは勿論、保護者の競技にも自ら参加していた。綱引きとか。  わざわざ、じいちゃんが出なくてもと、内心思っていたけど。

マラソンが大好きで、毎日走っていたし、ホノルルも2回走った。元気な70代だった。

この絵本のジイちゃんのように短距離ではないけど、走れることはすばらしい。

松林の木陰でみんなでお弁当を食べた、あの頃の運動会がなつかしいね。

作:くすのき しげのり 絵:吉田尚令 「ぼくのジィちゃん」より

「背番号4」

先日、みずほペイペイドームへ野球観戦にいってきた。 21対0 と快勝でドーム全体が沸き立っていた。

4万人の人が、一斉に歓声をあげる野球ってすごいなと思う。

 

ところで、我が息子も小さいころから野球をやっていた。

雁ノ巣球場まで、おじいちゃんと一緒に自転車で。毎日毎日、練習に通っていた。(今は小4まで自転車で道を乗ってはいけないらしい)。今更だけど、おじいちゃんありがとうね。

そして、高校2年の時、4番のゼッケンをぽんと差し出して、「上から17㎝のところで縫って」って。

「セカンドのレギュラーなれたん?」公立高校の野球部だけど、熱い思いは甲子園を目指す学校と変わらない。

4番のゼッケンは母としてもうれしかった。曲がらないようにできるだけ丁寧に縫い付けた。

土日も練習試合できつかったね。でも、子どもたちから、たくさんの感動をもらったことを忘れない。

文:指田 和  絵:長谷川 義史 「ぼんやきゅう」より

「お豆腐やさんのはなし」

「ひき石と24丁のとうふ」(大西暢夫)の紹介。

お客さんから、教えてもらった、写真絵本。出会えてよかった絵本だ。

「ぽつんと一軒家」。という番組をテレビでよく見るけど、たぶんここは取材されてないし、取材してほしくない場所だ。

この写真絵本でしか伝わらないものがある。

山奥で90歳のおばあさんがひとりで営むお豆腐やさん。ひき石(ひき臼)で大豆をひき、24丁の豆腐をつくる。若いときから目もよく見えてないらしいけれど、毎日毎日、休むこと無く。薪の音に耳を澄ませ、全ては長年の経験で豆腐をつくり続け、凍てつく夜は凍み豆腐をつくる。藁で編んで繋いだ凍み豆腐もまた、愛おしい。

 

子どもたちにも、出会わせたい絵本だ。年齢は関係なく。低学年でも高学年でも。

大西暢夫「ひき石と24丁のとうふ」より

「とってもうれしい宿題」

どきどき わくわく まちたんけん2年生

「わじろ小校のお気に入りのばしょをしょうかいしてください」

になんと!!  『たねぽけっと』(ちいさなえほんやさん)を紹介してくれた りのちゃん、ありがとうね!

すごく嬉しかったよ。

1歳くらいのときから、ママと一緒にお話し会にたくさん参加してくれていた りのちゃん。もう小学2年生。お姉さんになったよね。

たねぽけっとの1期生?!のメンバ-のひとりです。

 

今活動が停滞していますが、小さい子に読みきかせができるくらいの お姉さんやお兄さんになっていますよね。

そういうシーンが再会できたらいいな。くものテーブルで。

「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」

小、中学校が近くだったので、登下校の心配は無かったのですが、その分、職場の遠い母の方が先に、家を出て、当然仕事から帰ってくるのも、子どもの帰宅時間には間に合わない。

だから、「いってらっしゃい」も「おかえりなさい」も子どもに伝えられなかった。フルタイムで仕事をしている親はみんなそうかもしれないけど。

末っ子は一人、お留守番をすることが多くて、ちょっとかわいそうだった。

 

黄色い帽子や黄色いランドセルを見るのも、2学期の中頃にやっと仕事の代休の時だった。

愛おしくて。 改めて、まだやっと1年生なんだと。

今日は、お母さんが家にいるから、「ただいま」が言えると嬉しそうに「いってきます」を言って学校にいった。

学校から帰ってきた時に、

「ただいま」を言った娘の笑顔を忘れない。「おかえりなさい」

 

そんな娘も、成人し、責任ある仕事を持ち、優しいパートナーにも恵まれた。ふと、子どもの頃のことを思い出すと切ないけど、有り難いことに、四人のこどもたちは、みんなたくましく大きくなりました。

 

今日はランドセルを揺らしながら帰る、黄色いランドセルを見て、つい思い出してしまった。家庭訪問でみんな早帰りらしい。

作:三浦太郎 「おうちへかえろ」より

作:ジミー・リャオ 訳:天野健太郎 「おなじ月をみて」より

「ふるさと」

わたしが育ったのは筑豊の炭鉱のまち。 石川えりこさんの「ボタ山であそんだころ」と時代がリンクする。

どのページもうなずけるのだ。お父さんが昼間家で寝ているのは、3交代制の3番方の日。父がきげんが良かったのは、1番方で夕飯を家族で食べられる日。夕方、傘をもって、事務所まで迎えにいったことがある。

雨は上がり、傘は必要なかった。父は共同風呂から上がって、二人に気がつくと、満面の笑み。上機嫌で「ああ、迎えにきてくれたとね。」  このときの父の湯気の匂いを忘れない。

 

巻末に昭和40年に起きた、山野炭鉱のガス爆発事故のことが書いてあります。子供心に緊迫した様子を覚えています。237人の犠牲者のうちの一人はわたしの叔父でした。

その年のお盆には玄関先に無数の盆提灯が下げられました。その風景が目に焼き付いています。

 

ちなみに、わたしはボタ山であそんだことはありません。それから、お父さんのいない子どもたちは家の手伝いをよくし、たくましく、育っていったと思います。

石川えりこ 「ボタ山であそんだころ」より