わたしが育ったのは筑豊の炭鉱のまち。 石川えりこさんの「ボタ山であそんだころ」と時代がリンクする。
どのページもうなずけるのだ。お父さんが昼間家で寝ているのは、3交代制の3番方の日。父がきげんが良かったのは、1番方で夕飯を家族で食べられる日。夕方、傘をもって、事務所まで迎えにいったことがある。
雨は上がり、傘は必要なかった。父は共同風呂から上がって、二人に気がつくと、満面の笑み。上機嫌で「ああ、迎えにきてくれたとね。」 このときの父の湯気の匂いを忘れない。
巻末に昭和40年に起きた、山野炭鉱のガス爆発事故のことが書いてあります。子供心に緊迫した様子を覚えています。237人の犠牲者のうちの一人はわたしの叔父でした。
その年のお盆には玄関先に無数の盆提灯が下げられました。その風景が目に焼き付いています。
ちなみに、わたしはボタ山であそんだことはありません。それから、お父さんのいない子どもたちは家の手伝いをよくし、たくましく、育っていったと思います。
石川えりこ 「ボタ山であそんだころ」より